私は美術館に行くのがかなり好きなのだが、美術的素養がないためアートのことはさっぱり分からない。誰の絵や彫刻を鑑賞しようが、毎回感想はこれである。
「いいねぇ」
これしか言わない。あと「味があるねぇ」。バカの感想だ。以前友人の画家が個展を開いたので、ちゃんとアートの分かる友達を誘って遊びに行った。「いいねぇ」しか言えないくせに堂々アテンドする振りをする私を尻目に、その友達は明確に技法的なポイントを捉えて展示作品を過不足なく褒め、評価し、友人を喜ばせていた。帰る頃には「いいねぇ」も出なくなりましたねぇ私は。だが、それでも私はアートが好きである。文句あります?
以下は、その程度の人間が書いた文章であることをお含み頂きたい。
《目次》
1.金魚電話ボックス事件終結!
いわゆる「金魚電話ボックス事件」と呼ばれる、「電話ボックスの中に水を溜めて金魚を泳がせた現代アート」をめぐる著作権侵害事件が終結した。
簡単に言えばこんな事件だ。現代美術家・山本伸樹氏(以下「山本」)が、郡山柳町商店街(以下「商店街」)が設置した「金魚電話ボックス」(2014、写真2)は、山本の「メッセージ」(1998、写真1)という作品の著作権を侵害している、と主張。一審では山本が敗訴したが、控訴審で逆転勝訴。そしてつい先日、最高裁が商店街の上告不受理を決定し、山本勝訴(著作権侵害認容)が確定したという事件である。
この手の、アイデア一発勝負(とアートを理解しない者には見える)の現代アートは、鑑賞するのは楽しいが、独占するのが難しい。著作権はアイデアを保護せず、具体的表現を保護するという原則があるからだ。
したがって、著作権侵害の成否を評価するときには、「表現自体が似ているのか、それともアイデアが似ているに過ぎないのか」(また、あるアイデアに基づく表現をしようとしたときに取り得る表現の幅の広狭から導き出される、表現の創作性の有無、程度)を慎重に検証することが欠かせない。
しかしこの手の現代アートは、ともすればすべてがアイデア一発に見えてしまうから困ってしまう。「メッセージ」と「金魚電話ボックス」も一見よく似ているが、「アイデアがカブっているだけ」とも言えるのだ。だがもし、こうした現代アートのすべてを「アイデアに過ぎない」としてしまえば、芸術として評価されているにもかかわらず、著作権でほとんど保護できないことになってしまい、それはなんだか据わりが悪い気がする。どこかに境界線があるはず(あるいはあって然るべき)なのだが、それを探るのが難しいのである。
一連の裁判も、この点について一審と控訴審で判断が割れたので、なかなか難しいジャッジだったということだろう。
裁判の結論を簡単に書くとこうである。
2.それって結局アイデアじゃないの?~江差追分事件の再来~
山本「メッセージ」作品のうち、「①電話ボックスが水で満たされている」「②電話ボックスの側面は全面アクリルガラス」「③その中に赤い金魚が50~150匹程度泳いでいる」という点は、これらアイデアを表現したものだが、そのアイデアを具現化しようとすれば、誰が表現しても似たようなものになる等として、創作性が否定されている。
一方で「④公衆電話機の受話器が、受話器を掛けておくハンガー部から外されて水中に浮いた状態で固定され、その受話部から気泡が発生している」点については、後述の理由で創作性を認めている。
この、④の創作性が評価されたことで、作品全体の創作性も認められ、また商店街「金魚電話ボックス」も上記①②④の共通点を備えていたことから、両作品は類似しており、著作権侵害にあたる、としたのである。
ここで私が注目するのは、裁判所が④に創作性を認めた理由である。こんなことを言っている。
人が使用していない公衆電話機の受話器はハンガー部に掛かっているものであり,それが水中に浮いた状態で固定されていること自体,非日常的な情景を表現しているといえるし,受話器の受話部から気泡が発生することも本来あり得ないことである。そして,受話器がハンガー部から外れ,水中に浮いた状態で,受話部から気泡が発生していることから,電話を掛け,電話先との間で,通話をしている状態がイメージされており,鑑賞者に強い印象を与える表現である。したがって,この表現には,控訴人の個性が発揮されているというべきである。(下線筆者)
違和感がある。ここで(とりわけ下線部で)説明されていることは、「アイデア」そのものではないか?「受話器が水中に浮いた状態で固定されていること自体」「受話器の受話部から気泡が発生すること」そのこと自体はアイデアだろう。
そのアイデアが「非日常的」「本来あり得ないこと」であることを以って、アイデア自体を「表現」として評価しているように読めるのである。
この評価を前提として、両作品を比較しているのだから、結局アイデアとアイデアを比較しており、具体的表現同士の比較検討が浅いように思えるのである。
この認定は、かつて「江差追分事件」で、東京地裁、東京高裁が、「江差町が一年で一番賑わうのは9月である」という趣旨の小説の一節について、それが「実際に賑わうのは8月」という客観的事実に反していたことを以って「文学的独創」などと評し過剰に創作性(事実上のアイデア保護)を認めた事案を思い起こさせる。
江差追分事件は、この小説の一節と同じ趣旨のことを、似ていない文章で表現したテレビ番組のナレーションについて著作権侵害と断じるというポカをやり*1、最高裁でひっくり返されている。今回の金魚裁判の判断は、それに近い過ちを犯していると思うのだがどうか。いくら非日常的で本来あり得ない内容でも、アイデアはアイデアである。
3.具体的表現同士を比較しよう~透明人間の通話~
受話器の浮き方や気泡の出方には、確かに表現の選択の幅がある程度広いだろうから、ここを中心に表現同士を比較することは正しいアプローチだと思う。だがあくまで、具体的造形表現同士を比較すべきである。
それで、山本「メッセージ」と、商店街「金魚電話ボックス」の、受話器関連の具体的造形を比較すると、上の写真を見る限りは、両者の「浮いている受話器の位置や角度、浮き方」が異なる。ただ、ネットで検索できる*2その他の写真や動画を見ると、「メッセージ」も「金魚電話ボックス」も、受話器の位置や角度、浮き方はどうも必ずこうと固定されているわけではなく、展示するタイミングによって違うようなのだ。
仮に、浮き方がまったくその時の偶然に委ねられていて、作為が介在しないのであれば、それは表現とは言えず(アイデアを実行しているだけで表現をしていない)、両者を比較することすらできない(著作権侵害にもならない)と思う。
もっとも、「メッセージ」の受話器は、展示タイミングによって位置こそ上下しているが、概ね、いつも受話器が縦に真っすぐに近い角度で、電話機本体からさほど遠くない位置で浮かんでいるように思える。なんというか、透明人間が受話器を持って電話を掛けているような浮かび方をしているのだ。固定はしていないものの、表現の方向性にはある一定の作為があるのではないか。そして、そのような浮かび方をしているからこそ、裁判所も「電話を掛け、電話先との間で、通話をしている状態がイメージされ」ると認定したのではないか。
対して「金魚電話ボックス」の受話器の浮き方は、もっとランダムで、受話器がひっくり返ったり、不自然に端に寄ったりしている。こちらは、本当に受話器の浮き方には無頓着なのかもしれない。結果として、「電話を掛け、電話先との間で、通話をしている状態」をイメージさせる余地はほとんどなく、目を引く対象は電話ボックスの中を泳ぐ金魚たちである。
この見方が正しければ、「受話器の浮き方」の具体的表現は、両者においてかなり異なるし、そのことによって、鑑賞者に与えるイメージも異なるといえそうだ。上記の裁判所による「イメージ」認定は、むしろ、具体的表現の類似性を否定する根拠として働くべきではなかったのだろうか。
そんな感想を抱いていたので、商店街が上告したとの報に接し、これは「江差追分事件」のように最高裁でひっくり返る可能性はあるそ、と踏んでいたのだが、結果として上告不受理だったので若干意外だった。商店街が、以上の点をもっと厚く主張していたら、結果は異なったかもしれない、と思う。
いずれにせよ、この裁判では、「受話器が浮いて気泡が発生している」という抽象的なアイデア同士を比較してしまい、具体的表現同士を十分に比較検討していないように思われるのだ。その点が、私がこの裁判例を素直に「いいねぇ」と評価できない理由である。