ブログブログ by 友利昴

自分に関する記事を書いたものです。

『エセ著作権事件簿』補稿―#KuToo 事件最高裁上告棄却を受けて

『エセ著作権事件簿―著作権ヤクザ・パクられ妄想・著作権厨・トレパク冤罪』では、基本的には既に判決が確定していたり、法的評価が明確になっているものなど、既に歴史になった事件を取り上げています。しかし、収録候補とした事件の中には、裁判係属中ながら取り上げる価値が高い事件がいくつかありました。基本は涙を呑んでボツにしたのだけれど、2件だけ収録しています。それが「#KuToo事件」「編み物ユーチューバー事件」です。

この2件については、刊行後に新たな判決が出たとしても、少なくとも著作権侵害にかかわる本質部分について判断が覆ることはないと考え、著者の責任において収録に踏み切ったもので、判決が確定したら必要に応じて補稿を発表しようと思っていました。

今般、このうち「#KuToo事件」について、原告著作権者側)の上告が棄却となり、本書で評した控訴審までの判断が維持され、原告敗訴が確定し終結しました(原告・被告双方の代理人が発表)。これを受けて、いささかの追加メモを残しておきたいと思います。

なお事件概要や控訴審までの評価については『エセ著作権事件簿』を読んでみてください。もしくは事実関係だけ細かく追いたいのであれば、裁判所が公表している判決文東京地裁令和2年(ワ)19351号知財高裁令和3年(ネ)10060号か、被告代理人の法律事務所が訴状等含めいくつか裁判資料を公開しています。読みましたか? 読みましたね? 最初のページだけ置いておきましょうか。買って全部読みました? それでは、以下が補稿です。

エセ著作権事件簿 KuToo

批判引用や誤解に基づく引用は、原則的には適法である。これは最高裁判例(裁判集民189号267頁「諸君!事件」)も是認しており、それ自体を理由として違法視・不正視するのはまず誤りである。

それはジャーナリストの本多勝一文藝春秋の雑誌『諸君!』を訴えた裁判で、当該『諸君!』の記事は、本多の記事や執筆姿勢について「報道記者としての堕落」などと手厳しく批判するものだった。そしてその前段で、本多の著書の文章を引用しているのだが、この引用に不正確なところがあり、本多の取材相手のベトナム人の発言を「本多自身の見解」であるかのように誤引用していたのである。#KuToo事件とよく似ていますね。これについて、本多が著作者人格権侵害等を主張し、最高裁まで争ったが敗訴している。この時の原審で示された以下の判示は重要だ。

評論の対象となる著作物の著者の真意と一致しないこともあり得ることであるが、その正確性の判断は、第一次には、当該評論とともに、言論の自由の広場において、読者の判断に委ねられるものであり、それが、違法となるのは、評論者が、評論の対象となる著作物の著者の人身攻撃などのために、原文の意味、趣旨と明らかに異にした引用又は要約をするなど、評論者として社会的に許容された範囲を逸脱したときに限られ、右引用又は要約が、その一部において原文と相違していても、全体として、主要な点においてその趣旨を伝えている場合には、真実性の証明があった場合と同様に、違法性が阻却されるものと解される。そして、一部引用又は要約が右の範囲を逸脱したか否かは、原文との相違の程度、評論者の評論の趣旨、目的、反論の機会の有無などを総合して判断すべきである。東京地裁 昭和59年(ワ)3358号・昭和59年(ワ)7553号事件)

この考え方は最高裁まで貫かれており、最高裁は、『諸君!』の誤引用を「適切を欠くことは否めない」と評価したものの、「違法性はない」と判断している。つまり、このような誤引用は、基本的には適法であり、それが「社会通念を逸脱した場合」に、やっと違法性を生じるのである。そしてそのレベル感は「人身攻撃のために原文を明らかに曲解する」などと例示されているぐらいであり、加えて原文と引用文の相違の程度や、反論の機会の有無なども総合考慮されるのだから、かなりハードルが高いといえるのだ。

ところで、#KuToo事件における「誤引用」とは、原告ツイッターユーザーが、#KuTooへの直接的批判でも石川優実へのメッセージでもない会話連投ツイートの中のひとつを切り出されて、「#KuTooや石川への的外れな批判」であるかのようにして石川の著書に引用された、というものだった。これはいわゆる「発言切り取り」型引用であり、こたつ記事やバイラルメディア、ミドルメディアなどの粗製濫造記事が跋扈する時代において、多くの政治家や芸能人などが不満や危機感を表明している問題でもある。いや、有名人に限らず、誰だって「そんなつもりで言ったんじゃないのに、発言や記述の一部を取り上げられて誤解されて、その話が広まってしまった」といった困惑を覚えたことは、一度くらいあるのではないだろうか。

そう考えれば、原告の問題意識、腹の立つ気持ちは理解できるし、訴えてやろうかと思う気持ちも分からなくはない(したがって、被告側が原告による提訴を、スラップ訴訟や女性差別目的などと位置付けていることには疑問がある)。

ただ、実際に訴訟で勝つとなると、前述の通りかなりハードルが高い。原告は、例えば「石川は、自分を人身攻撃する目的で、元ツイートを敢えてひどく曲解して引用したのだ」といったことを立証しなければならないのだが、裁判ではそれができなかったわけだし、客観的に本や元ツイートを読んで考察してみても、そこまでのものではなかっただろう。最初から負け筋だったことは確かである。

なお、この事件は、引用元がツイッターだったこともあってか、原告・被告・原告代理人・被告代理人、そしてそれぞれの支援者が事件を通してツイッター上で自己の見解を開陳し続けるという稀有な状況があった。根底にイデオロギーを絡めているせいかなんとも冷静さを欠いているものも少なくなく、参考になるものはほぼなかったが、控訴審判決後に投稿された、原告代理人によるこの2件のツイートは取り上げたい(前後略)

これは、石川の『#KuToo』書籍の第2章(原告らの多数の一般ツイートを引用した章)の前置き部分の記述「この章では、石川を攻撃したクソリプツイッターの中から引っ張り出し〔…〕『物言う女』に嫌悪を抱くメンタリティーの危うさを読者とともに考えていきたい」を指しているのだが、氏はおそらく、この記述を「各ツイートを引用する目的」と捉えたうえで、しかし実際には原告のツイートは「石川を攻撃したクソリプ」でもなければ「物言う女に嫌悪を抱くメンタリティーの危うさ」を考えるうえで参照すべきツイートでもないのだから、著作権法32条にいう「引用の目的上正当な範囲」を逸脱する、という考えを持っていたのだろう。

これ、理屈は分かるのだけれども、書籍における引用の目的をかなり矮小に捉えてはいまいか。これを認めてしまえば、過度に権利者を利することになり、引用による著作物の利用の自由とのバランスが著しく悪くなる。

他人の作品を引用するとき、その目的は、「この章はこういう目的で書きます」などと作者が明言したことに限定されるものではない。取り立てて目的を書かないこともあるしツイッター上の引用リツイートなんかそうだよね)それは引用文の前後の文脈や、書籍全体の趣旨から把握すべきものである。

『#KuToo』書籍についていえば、それは「#KuToo運動に対する的外れな誤解を解き、運動の真意を伝えること」であり、そのために、「#KuTooに対する誤解を促すと解釈できる他人のツイート」を引用し、批判を加えることは、別に不自然なことではない。原告代理人はそこが特に納得いっていなかったようなのだが、この点に固執し続けたことが、本件の見通しを読み違えた敗因のひとつではないかなと私は考えている。

というわけで、結局『エセ著作権事件簿』のファイルに収まった本事件。エセ著作権事件の中では「エセ度」は低く、問題意識は分かるけれどもといったところだ。

著作権意識をいささか持っている人は、「引用」の概念は知っているが、引用の許容性を狭く捉える傾向があると思う(逆に、なんも分かってない人は「引用」の大義名分があればなんでも使い放題だと誤解していることもあるのだが)しかし、これはよくある誤解であり、案外、引用の許容性は広い。

『エセ著作権事件簿』では、引用が主要争点となった事件として、他に

「漫画の引用は許さん!ゴーマン過ぎる無断引用禁止論者の敗訴『脱ゴーマニズム宣言』事件」

「作家の度量を問う!トンデモ本に6500文字の大引用でもセーフ!『小さな悪魔の背中の窪み』事件」

「批判記事で引用するな!?大手新聞社がトンデモスラップ訴訟で敗訴『運鈍根の男』事件」

を取り上げています。本書を読んでもらえれば、これらの事件の顛末に加え、どうして、引用の許容性が広く認められているのかについても、分かっていただけるんじゃないかな~と思います。というわけで読みましょう。

友利昴『エセ著作権事件簿―著作権ヤクザ・パクられ妄想・著作権厨・トレパク冤罪』(パブリブ)

エセ著作権事件簿 友利昴