ブログブログ by 友利昴

自分に関する記事を書いたものです。

「みんなのもの」を商標登録してしまう人々

『へんな商標』の本とか書いておいて言うのもなんですがー、商標出願情報へのアクセスが容易になる中、定期的に他人の商標出願が話題になりますね。「なんでこんな商標を…?」という程度の興味本位の話題、報道でしかないんですが、商標出願は、通常商品の発表前、企画段階で仕込むことが多いので、「なんで?」と問い合わせられても軽々しく答えたくないし、発表前から憶測によって色眼鏡で見られて勝手なイメージがつくのは迷惑だろう。だから僕は人の未使用で新しい商標はあまりいじらないんです。

話題になることが多いのは、新語・流行語にかこつけた商標出願ですね。ざわつく理由は分かるんだけど、ざわついたからといって、審査がそれに影響を受けないでくれよ、世間口に流されないでおくれよ、というアテンションの気持ちもあって、先月、特許庁の審査官向けの機関誌『商標懇』に「『悪意の商標出願』は本当に『悪意』で出願されているのか」という原稿を寄せたんですね。今日は、流行語等に関する商標出願の評価について論じた、その原稿の一部分を抜粋転載しようと思います。


  題して「『みんなのもの』を商標登録してしまう人々」

 

■「みんなのもの」を商標登録してしまう人々

(1)共有財産的標章

  これも広い意味でフリーライドの一種と捉えられる場合があるが、特定の他人に帰属する商標への便乗ではなく、国民や地域住民に馴染まれ共有財産のように認識されている標章(以下、「共有財産的標章」)を商標登録しようとする行為もまた、昨今、「悪意の商標出願」の文脈で眉をひそめられがちである。例えば歴史上の人物名や流行語、社会現象などに関する商標出願がこれに該当する。特定人に帰属する成果へのフリーライドであれば、怒るのは基本的にはフリーライドされた当人だけであるが、多くの人が使用を欲する共有財産的標章が何人かによって商標出願もしくは登録された場合は、幅広く戸惑いや反感を買うことにもなりがちだ。

戸惑いや反感の背景には、「本来は誰もが使えるべき語にもかかわらず、特定人に商標登録されてしまったら、使用が制限されてしまうのでは」という不安や不公平感がある。実際には商標権の効力は限られた範囲にしか及ばないので、杞憂である場合も多いが、権利範囲(類似範囲や商標的使用の範囲など)がしばしば明確でないこともあり、一定の混乱や萎縮を招くことは確かであろう。

例えば、地質時代期の名称として国際学会で審査中の「チバニアン」の名称が「印刷物」等の指定商品について商標登録を受けた事案を受け、チバニアンの研究チームは「『チバニアン』に係る論文誌・学術誌等を出版する者は,商標的使用か否か,ひいては本件商標権の侵害に当たるかをおそれながらの出版を余儀なくされることとなる」[1]との懸念を吐露している。

 

(2)商標登録するけど独占はしません?

一方で、こうした出願の背景には、必ずしもその語の使用を独占し、他人の使用を制限しようとする「悪意」があるとも限らない。例えば、高知県が「坂本龍馬」の語を含む図形商標の登録を求めて行った査定不服審判において、同県は「本願は出願人が経済的利益の独占を図る意図をもってなしたものではなく、そのような権利行使をすることがあり得ないことも強く主張する」[2]と強調しているし、かつてテレビドラマの決めゼリフとして流行した「じぇじぇじぇ」の語を商標登録した沢菊社は、「独占するつもりはなく、相談があれば使えるようにする」[3]と取材に応じている。

しかし、独占するつもりがないならば、なぜ商標出願をするのだろうか? その背景には、「誰かに商標登録されると自分が使用できなくなってしまう」という出願人としての不安がある。何人も使用を欲する共有財産的標章は、当然商標としての使用が欲せられるケースもあるわけだが、その際、自身の適法な使用を将来にわたって担保するために、独占する気はなくとも敢えて商標登録をすることによって、他人に商標登録される余地を排除しようというわけだ。

こうした不安は、商品・役務の普通名称や品質等表示等と目される標章(これらもある意味「共有財産」的性質を持つ)を敢えて出願する動機となることも多い。独占が目的ではないため、自身が拒絶査定を受けて「誰かに商標登録される」可能性が低いことが確認できれば満足されることもしばしばである。いわば「安全確認出願」といえる。

以前大分県が「おんせん県」を商標出願したところ、同じく温泉を観光資源とする群馬県から非難[4]を受けたことがあった。このとき大分県は、「営利目的の第三者…(中略)…が登録した場合などに、『おんせん県』の使用ができなくなったり、使用料が発生したりすることも考えられることから、大分県として保護的な意味合いで商標登録をしておいた方がよい」と考え、「念のために」出願したものであると説明し、そのうえで「各県の使用を妨げる意図は一切ありません」としている[5]

こうした出願意図を「悪意」とまで断ずることはふさわしくないだろう。出願人の心情としては理解できるところではある。だが、共有財産的標章について、「誰かに商標登録されると自分が使用できなくなってしまう」という不安を解消するために、他の大勢をまさに「商標登録されてしまったら使用ができなくなってしまうのでは」という不安に陥れる行為は、いささか身勝手ではないか。「誰かに公園を占拠されると遊べなくなってしまうかもしれない」などと言いながら、自分が公園にバリケードを張ってしまうようなものだ。商標法の予定する趣旨からも外れているとも思われ、悪意ではなくともBad faithな商標出願と位置付けることはできそうだ。いくら「独占(権利行使)するつもりはない」と言ったって、そうした意思が当然に他人に伝わるものでもなく、公益や商業秩序を乱す場合は少なくないと考えられる。

 

(3)様々な出願意図の狭間で

  とはいえ、共有財産的標章の出願意図が、(1)積極的に他人の使用を制限したいがための「悪意」の出願か(2)自己使用を前提とするが権利行使は想定しない「安全確認出願」か、はたまた、(3)自己の商品等の出所を表す商標として育成し、その独占を図るという商標法の趣旨に則った「正当」な意図の出願であるかを判別するのは容易ではなく、もし審査等において判別の必要が生じた場合は、やはり当事者らによる主張立証に頼るところが大きいだろう。

ちなみに(3)のパターンもちゃんと存在する。例えば冒頭[6]で触れた「オリンピック」は、そもそもはIOCが近代オリンピックを創設する遥か以前から古代ギリシャのスポーツの祭典(現在では近代オリンピックと区別して「古代オリンピック」と呼ばれるもの)の名称として親しまれてきた経緯がある。また、ギリシャオリンピアにある、古代オリンピックが行われた競技場などの遺跡は世界遺産にも登録されており、ギリシャの観光地、文化資産としての存在感を放ち続けている。つまり「オリンピック」の語は、まさに「共有財産的標章」としてのオリジンを持つものなのである。こうした事情から、ギリシャでは現在もなお、IOCが「オリンピック」の語を自身の資産と見なす姿勢に対して疑問を呈するむきがあるという。

この状況が象徴するように、もともと共有財産的性質を持った標章を、特定の出所を表す商標として育成することには、不可能なことではないだろうが、一般的には長い時間と困難を伴うものである。だが、そこまでの覚悟を持ったうえでの商標出願であれば、少なくとも主観的な出願意図としては、商標法の趣旨に則った正当な意図と評価すべきと考える。登録を認めるべきかどうかは別問題として。

(初出:特許庁商標懇談会『商標懇』[2018]「『悪意の商標出願』は本当に『悪意』で出願されているのか」より)

 

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[1]異議2017-900179「チバニアン」事件

[2] 不服2011-000928「坂本龍馬」事件

[3]朝日新聞」2013年11月29日付夕刊「流行語 次々と商標出願」(朝日新聞社

[4] このとき群馬県は「『他県を敵に回しても』ということなのだろうか」、「手法は日本の地名を勝手に商標登録した中国のケースを想起させる」(同県観光物産課)と強い表現で非難したが、殊、この標章に関して言えば、それほど広く一般的に使用されている表現とは思えず(すなわち「共有財産的標章」とは思えず)、温泉資源をPRする語は他にいくらでも選択肢があると思われるため、「そんなに怒るか?」というのが筆者の意見である。発言は〔毎日新聞社「毎日.jp」2012年11月10日付「おんせん県:大分商標登録に 群馬知事困惑」より。

[5]大分県ホームページ「大分県による『おんせん県』商標登録申請について」2012年11月15日付 

[6]本ブログ記事では割愛。